農業土木学会誌 第69巻 第2号,pp.7〜12 平成13年 (2001)


農業水利事業に関わる義人の功績とそれが地域に与えた影響

緒方英彦*,服部俊宏**,黒木浩則***

* 鳥取大学農学部
** 北里大学獣医畜産学部
*** 日本技術開発(株)

I. はじめに

  「郷土を救った人びと」
1)という書籍がある.この書籍には,郷土を救った義人 を祀る日本全国の神社120社が掲載されている.義人を祀るための神社・記念碑の建造及び祭事・行事の慣行は,近世以前にはほとんど見られない信仰形態であった.近世以降このような信仰形態が多くなった理由の一つとしては,江戸時代において人口扶養力の飽和を打開するための土地の開拓や農業水利事業,年貢減免闘争,殖産などに,私財をなげうちあるいは命を賭して地域に尽くした人びとが多くいた結果である.
 表1に地域ごとの義人の数を示し,あわせて農業水利事業による義人の数を示す
1).日本全国の義人の中で農業水利事業の功績により義人と呼ばれるようになった人は,全体の約38%を占めており,農業水利事業がいかにその地域に貢献していたのかを知ることができる.このことは,農業土木学会が1999年に発行した「水土を拓いた人びと」2)にも記述されている.

表1 地域ごとの農業水利事業による義人の数

地域 総数
(人)
農業水利事業
(人)
割合
(%)
東北 20 7 35.0
関東 10 2 20.0
中部 40 17 42.5
近畿 9 3 33.3
中国 7 1 14.3
四国 17 6 35.3
九州 17 9 52.9
合計 120 45 37.5

 それでは,農業水利事業を通して義人と呼ばれるようになった人びとの功績は,現代においてどのように評価され,そしてその功績は現代のその地域の文化的・社会的環境にどのような影響を与えているのであろうか.現在,さまざまな社会資本整備の是非を巡る議論がなされ,事業の地域性が求められるようになっている中,事業が地域に与える影響,特に長い年月が経過した後の影響を過去の事例から推考することは必要である.また,事業が地域にとけ込むための留意事項を過去の事例から推考することも必要である.現代と過去における時代背景等の違いは否めないが,農業水利事業の結果生まれたものも含めた風土・地域性は脈々と受け継がれるものであり,過去の事例を公共性の高い事業を展開していく上での参考にする価値は高いと考えられる.
 そこで一つの事例として,農業水利事業の功績により義人として祀られるようになった鳥取県八頭郡郡家町(図1参照)の安藤伊右衛門の功績と,その功績が現代の郡家地区に与えている影響について調査した.
 本報では,郡家地区での調査結果を示すとともに,歴史的農業水利事業がその地域の文化的・社会的環境にどのような影響を及ぼしているのか,そして今後実施される事業が円滑に地域にとけ込むためにはどのような点に留意すればよいのかを,事例をもとに考察した.



II. 安藤伊右衛門による農業水利事業3)4)5)

 1751年(宝暦元年)生まれの安藤伊右衛門(以下,安藤翁)は,田畑を約70ha持つ豪農であった.安藤翁は,自家畑地数十haの水田化と,毎年のように続く郡家の水不足を解消するために,八東川(図2参照)を取水源とする井手の施工を鳥取藩に申し出た.しかし,当時の藩は財政が苦しく,工事費用を支援できないことと,大工事であるために完成の見通しがつかないという理由から一向に許可を出さなかった.安藤翁は何年も請願を続け,全額自己負担という条件付きながら1820年(文政3年)に施工の許可を得た.
 工事は,藩から普請奉行が出張し,但馬(現在の兵庫県北部)から黒鍬という土木工事の専門家を雇って大々的に開始され,安藤翁が陣頭指揮をとって行われた.井手の施工で最も重要となるレベル測量は,約 2mの竹竿の先に管笠をつけて合図し,水路の山裾に昼は竹竿に布をつけ,夜は提灯を並べて行われた.
 井手の工事の中で最も難航したのが通り谷穴井手(穴井手とは現在の水路トンネルのことである)の掘削作業であった.通り谷は,岩質が硬い変成岩の石墨雲母千枚岩や黒雲母片岩,粘板岩であり,また,落盤や地下水の湧出などがしばしばあったことから,作業は困難を極めた.そこで,京都伏見の弁財天を勧進し工事の完成を祈願したところ,無事穴井手が完成したという.完成した通り谷穴井手は,幅1.2〜1.8m,延長約459mであり,総人夫66,223人,総経費24,816両(約5億円)と約3年の期間を費やした.
 通り谷穴井手の完成の後,1823年(文政6年)に井手の全線完成となった.井手の施工費用のため借財を重ねていた安藤家では,その返済のため田畑を売却し続け,施工完了後に残った水田は約14haであった.この安藤翁の功績をもって,井手は安藤井手と呼ばれるようになった.表2に安藤井手の概要を示す.

表2 安藤井手の概要

施工開始 1820年
施工終了 1823年
井手敷面積 105a
水路の長さ 10.8km(安井宮前―安井―大門―平木谷―殿―市ノ谷―西御門―本谷―神馬谷―通り谷―郡家―宮谷)
井手幅 0.9〜2.4m
井手深さ 1.2〜3.3m
延べ人夫 257,483人
総経費 72,229両(約15億円)
森林原野開墾新田 12.4ha
畑地水田化 15.22ha
その他の受益地 井手の余り水により宮谷,久能寺,福本,池田の約272haの水不足を解消


 1855年(安政2年)には安藤翁の孫仁平によって安藤井手から久能寺井手が分水され,久能寺地区や国中地区にまで井手の水が運ばれるようになった.


III. 安藤井手の管理


 図2に現在の安藤井手の幹線図を示す.現在の安藤井手は,施工当初とは異なり安井の宮前にある長瀬堰から取水している.長瀬堰からは,郡家地区に農業用水を運ぶ安藤井手以外に,安井,大門,花の各地区へ農業用水を運ぶ井手も取水している.堰の水番,水迎え,水落としの日程は,4地区で構成される長瀬堰委員会で決められている.各井手への分水では,低水位であっても安藤井手には必ず水が流れ込むように通水板の高さが調節される.長瀬堰は,一部コンクリート製ではあるが全体的には石を積み上げた簡素なものであり,八東川が増水し決壊した場合には,その都度長瀬堰委員会が改修している.


 安藤井手の管理は,1882年までは安藤家が行っていたが,その後は郡家地区内で組織された用水組合が行うようになった.これは,安藤家に対して鳥取藩が認めていた新開田年貢25%の永世支給が,1867年(明治元年)の地租改正により消滅し,安藤家において施工費用の借財の返済と井手の管理費の捻出ができなくなったためである.1875年および1882年には,安藤井手受益地地主一同が当時の鳥取県令に対して安藤家の恩賞復活の申し出を行ったが認められず,井手の管理が安藤家から用水組合に移行することになった.
 現在の用水組合には,0.584m3/sの灌漑用水を八東川から取水できる慣行水利権が認められている.1945年までは,部落長が用水組合の委員長を兼任していたことから,安藤井手と郡家地区の深い繋がりを知ることができる.安藤井手の管理は,用水組合の年中行事として行われており,歴代の用水委員長を中心に時代を越えて受け継がれている.表3に安藤井手に関する年中行事を示す.

表3 安藤井手に関する年中行事
井手検査 3月下旬から4月上旬に,用水委員全員によって安井〜郡家沿線の漏水個所等の点検をする.これを基にその年の丁場計画が立てられる.
井手丁場(工事) 井手の修理などを行う工事である.4月上旬から実施し,反別割出役である.費用は用水組合で負担する.
水迎え 6月上旬の「節入り」の日に大口の水門を開け,井手に水を流し込む.
水切り 水番である.戦時中の人手不足の時代には,個人に依託していた時期もあったが,その後は通水開始日から関係農家巡番制で見回る.
井手草刈 水の流れを良くするための草刈作業である.全農家出役により実施される.
安藤篭り 毎年田植え終了後に,郡家,宮谷,久能寺,福本,池田,水下の農家が,安藤伊右衛門の墓前で報恩感謝のお篭りをする.近年は,代表者が墓を参拝した後に郡家公会堂で行われている.
弁財天穴井手祭り 通称安藤祭りと呼ばれる祭りである.9月第4土曜日に開催される.
水落とし 9月日に井手の大口の堰門が閉められ,長瀬堰からの取水を停止する.

 安藤井手の年間通水は,戦後から1952年までの間に始まった.それ以前は,農閑期における通水は行われていなかった.この理由は,殿地域において井手からの漏水がひどく,民家の軒下にまで水が流れ込むという問題があり,その配慮のためであった.しかし,安藤井手により郡家地区に供給される水は,防火用水としても活用されていたことから,西御門の本谷から別途取水することによって,ようやく年間通水が可能になった.現在も郡家地区内の家々を周回するように張り巡らされた安藤井手の支線から供給される水は,郡家地区内の防火用水として活用されている.


IV. 郡家における安藤井手の影響

1.農地や世帯数の変化
 図3に郡家地区における水田面積変化を示し,図4に安藤井手を水源とする各地区の石高変化を示す
6)7)8).また,図5に郡家と周辺主要地区の世帯数変化を示す6)7)8).ここで,1890年の町村名並びに行政区分変更にともない,郡家,宮谷,井古,下坂は加茂に,久能寺と万代寺は国中に含まれるようになった.船岡,河原,用瀬は,図1に示す現在の船岡町,河原町,用瀬町の主要地区のことである.
 水田面積に関しては,1823から1906年の間の資料が無いためにこの間は推測するしかないが,郡家地区の石高がこの間増加していることから,水田面積は増加していたと推察できる.特に,1701から1864年の間における郡家地区と久能寺地区の石高増加量は,それぞれ100石,98石と他地区よりも著しく多く,安藤井手と久能寺井手の影響の大きさを示す結果となっている.記録3)5)によると,安藤井手施工以前の郡家地区は「粟・そばの村」と呼ばれていたが,施工後は「稲作豊穣の村」と呼ばれるようになったそうである.このように安藤井手は,郡家地区の農業を一変させ,石高増加を背景に郡家地区の繁栄の基礎をつくる原因になったことがわかる.
 郡家地区の水田面積は,1900年頃から減少傾向にあり,1950年頃からは急激に減少している.1950年頃の世帯数が急激に増加していることから,水田が宅地へいかに多く転用されたかを示す結果となっている.このように郡家地区の世帯数が1900年頃から急増した理由としては,1919年に開通した因美線と,1963年に開通した国道29号が郡家地区の中心部を通過し,交通網が整備され,鳥取への通勤や移動が容易になり,郡家地区が通勤圏の居住地として優位な位置になったためである.このほか,郡家地区には,国や県の出先機関や教育機関があり,八頭郡内における政治,経済,教育の中心的位置にあることも世帯数増加の理由の一つとしてあげることができる.





 図6に郡家と周辺主要地区の水田面積変化を示し,図7に畑地面積変化を示す9).1953年と1958年に町村合併が行われたために,1950年以降の各地区における資料の分類を行うことができなかった.そのために図6,7には1950年までの資料を示す. 郡家と周辺主要地区においては,用瀬を除いて畑地面積が水田面積に比べて著しく少なく,この地域全体が水田主体の農業生産体系であることがわかる.ここで,1948年における畑地面積と水田面積の比率は,賀茂8.6%,国中17.5%,船岡20.8%,河原26.1%,用瀬77.1%であり,特に,郡家地区を含む加茂は,他地区と比べても畑地面積が水田面積に比べて著しく少ないことがわかる.このように郡家地区が他地区よりも水田主体の農業生産が行われている理由は,安藤井手により農業用水が確保されたことが大きく影響を与えているためである.安藤井手の存在は,郡家と他地区における農業生産体系の違いを明確にするに十分な要因であったことがわかる.



2.文化への影響
 表3に示した安藤井手の年中行事にある弁財天穴井手祭りは,通り谷穴井手の成功を祈願するために京都伏見の弁財天を勧進して造られた通り谷弁財天社の祭りである.安藤翁は,没後,安藤井手の農業水利事業の功績により郡家地区の義人として弁財天とともに合祀され,その後弁財天穴井手祭りは安藤祭りと呼称させるようになった.現在の安藤祭りの概要を表4に示す.

表4 安藤祭りの概要

日時 毎年9月最終土曜日.屋台(御輿)が出るのは隔年.
場所 特定の場所はなく,郡家地区内を練り歩く.
主催・共催 主催・共催というものはなく,地区で祭りを運営している.郡家地区は,中区,東区,西区,北区,南区の5区で構成されているが,祭りに参加するのは南区を除く4区である.これは,南区が新興住宅地であるからである.祭りの運営費用は,各地区ごとに集金される花で確保している.花とは,お金を入れた封筒のことであり,封筒の表に花と書くことからそう呼ばれている.
祭りの目的 もともと弁財天に水路の完成を感謝して行われた祭りであるが,現在では安藤伊右衛門を崇めると言った趣が強いようである.祭神として弁財天が祀られているだけでなく,合祀として安藤伊右衛門も祀られている.そのため,御輿の神移しの時には,弁財天だけでなく安藤伊右衛門も移している.
内容 郡家地区の中区,東区,西区から一つずつ屋台(御輿)が出る.北区は中区とともに屋台を出す.屋台はそれぞれの区の中心地から出発し,安藤伊右衛門の墓を含んだ順路を一周する.途中各区ごとに考案された踊り4〜7個を踊る.東区では各家から一人ずつ屋台の担ぎ手もしくは踊る人を出席させることにしている.多い区では,100人ほどの行列になる.特に出店などはない.
時代変遷 昔は,奉納相撲が行われていたが,人手不足のため6〜7年前からは行われなくなった.現在では,神社の前に土俵を描いて,形式だけ執り行われている.屋台は,1925年頃にはすでに行なわれていたようである.始めたばかりの頃は,荷馬車などを装飾して人が引き,1951年頃には西区が軽トラックを装飾して動かしていた.その後,軽トラックから現在の屋台へと変化していった.


 表3に示したように,安藤祭りは安藤井手に関する年中行事の一つに含まれてはいるが,用水組合ではなく郡家地区が運営している.そのために安藤祭りの参加者は,郡家地区の住民に限定されており,他の地区の住民は参加していない.しかし,安藤翁に感謝の意を表す安藤篭りには,郡家地区に限らず関連地区農家も参加して行われる.安藤翁に感謝の意を表すという目的は同一でありながら参加者が異なる理由は,住民と農業従事者では安藤井手による恩恵の受け方が異なるためであり,また祭りという行事の地域的閉鎖性が関係しているからである.そして,特に重要なのは,安藤井手を施工した安藤翁という存在が郡家地区における歴史的誇りとして伝承されていることもあろう.このことは,新興住宅地である南区が安藤祭りに参加していないことからも知ることができる.ヒアリング調査を行った結果,地区活動などに関する協力体系が確立されていないことが理由の一つであるようだが,安藤井手を背景として始まった安藤祭りが地区内のコミュニティ形成に少なからず影響を与えていることがわかる.
 郡家以外の地区においては,農業従事者の減少にともない,地域の農業に多大な貢献をした安藤井手という存在は益々薄れていくであろう.しかし,郡家地区においては,年に一度の安藤祭りに参加することで,なぜ安藤祭りと呼ばれているのか,なぜ安藤翁の墓前を必ず通るのか,そして,なぜ安藤祭りが行われるようになったのかを少なからず知るきっかけとなり続けている.現在の郡家地区においても,ほとんどの住民が安藤井手と安藤翁のことを当然の如く知っている.
 このように安藤祭りを郡家地区が運営していることにより,農業を生業としない住民が増加し,地域の様相が変化した今日においても,安藤祭りは安藤井手という農業水利事業と郡家地区の住民を強く結び付けるきっかけとなり続けている.そして,祭りの原因となった農業水利事業の経緯並びに効果を,無理なく,そして深く浸透させる要因にもなっている.一方,地域間,地区間のコミュニティ形成にも少なからず影響を与える要因になっている.
 その他,郡家地区内で歌い継がれている郡家音頭,郡家小唄,安藤伊右衛門賛歌などには,歌詞の中に「安藤伊右衛門」や「安藤さま」,「安藤井手のおかげで」などが含まれている.このように安藤翁や安藤井手という言葉は,郡家地区の歌に無くてはならないものであり,このことからも安藤翁と安藤井手の存在が郡家地区にとっていかに重要なものであるかが窺える.

X. まとめ

 本報では,歴史的農業水利事業が現代のその地域にどのような影響を及ぼしているのか,そして今後実施される事業が地域にとけ込むためにはどのような点に留意すればよいのかを,鳥取県八頭郡郡家町での事例を基に考察した.
 その結果,歴史的農業水利事業は,受益地区内・外における農業生産体系の違いを生じさせ,さらには文化面にまで影響を与えていることがわかった.つまり,農業を生業としない住民が増加し,地域の様相が変化した今日においても,歴史的農業水利事業を原因として発生した文化は,この事業と地区住民を強く結び付けるきっかけになり,事業の経緯並びに効果を自然な形で祭りの参加者である地区住民に浸透させ続けていることがわかった.また,地域間,地区間のコミュニティ形成にも少なからず影響を与える要因になっていることがわかった.
 最後に,現在の安藤井手には,残念なことに管理用道路がなく,管理作業を十分に行うのは困難な状況にある.郡家地区の発展の基礎をつくった安藤井手を誰の目にも留まる形で整備することができれば,先人達の水に対する想いを皆に周知させることができるだけでなく,安藤井手を後世まで存続させることができるのではないかと思われる.また,安藤祭りの根本は安藤伊右衛門が施工した安藤井手であることから,安藤井手を整備し存続させることは,地域文化の継承や郡家地区における今後のコミュニティ形成の上でも重要であると思われる.

謝辞:
 本研究を行うにあたり前郡家部落長の山崎進氏をはじめ,郡家部落誌編集委員の井上正二氏,小杉義山氏,並びに奥田和夫氏には多大なる御助言と御協力を頂きました.松井律博さん(当時鳥取大学農学部)には資料の収集並びに整理のご協力を頂きました.ここに記して感謝の意を表します.また,本研究は,平成11年度農業土木学会研究グループ助成金を受けて行われたものであります.付記して感謝を表します.

引用文献
1) 神社新報社:郷土を救った人びと―義人を祀る神社―,神社新報社(1981)
2) 農業土木学会:水土を拓いた人びと―北海道から沖縄までわがふるさと先達―,農山漁村文化協会(1999)
3) 井上一郎ほか:郡家部落誌,郡家部落(1999)
4) 山口俊美ほか:安藤井手施工百五十周年記念誌,郡家部落(1973)
5) 八頭郷土文化研究会:新編八頭郡誌一巻「ふるさとの歴史」(上),八頭郡町村会(1988)
6) 八頭郷土文化研究会:新編八頭郡誌四巻「故郷の山河」,八頭郡町村会(1991)
7) 郡家町:郡家町統計資料編,郡家町(1998)
8) 鳥取県土木部都市計画課:平成四年度都市計画基礎調査報告書,鳥取県(1992)
9) 鳥取県地方課:市町村別民有地積および評定価額(明治40年〜平成8年),鳥取県立公文書館