農業・農村について

平成6年度ヤンマー農機懸賞論文の一部より
 21世紀を目の前にして、日本の文化や歴史を創作するのに貢献してきた農業は農村内部(農村住民)や農村外部(マスコミ、官僚、政治家、学者、都市住民など)から数多くの問題を提示されている。

 提示される問題は畜産廃棄物や農薬の自然・人間環境に対する影響、食料生産・消費、そして流通システムに関するものをはじめ数多くあるが、同じ問題を論じる場合でも、論じる立場によって論点が大きく異なることに気付く。これは、論じる立場が農村内部そして、農村外部とさまざまであり、各自の受ける利害も違うことからしかたのないことである。

 このように数多くの問題を提示されている農業・農村の今後について考えてみると、現在議論の対象になっている問題はあまりにも広範囲であり、多くの人が介在しているために一朝一夕には解決できないことに気付く。また、国規模、そして地域規模などで画一的に問題を解決しようとするのも至難の業である。

 このような状況の中で、各農業従事者が農業を生業として受けとめ、食料生産者という自覚を持つためには、農業従事者の意識改革が必要となる。この集団レベルでの意識改革ではなく、個人レベルでの意識改革を行うことで、農業に対して提示されている問題を根底から見直し、各地方風土に根ざした農業技術や農作業体系の開発を行うことがこれからの農業に必要な要素であると思われる。

 ここで、農業従事者の意識改革を行う前提条件の一つとして、農業従事者の精神的充実化が上げられる。ここで精神とは、『知性的・理性的な、能動的・目的意識的な心の動き。』(広辞苑)のことである。

 現在の農業経営において、時間的余裕、経済的余裕については行政、法律などのハード面だけでなく、農業機械や農作業技術の進歩に代表されるソフト面の充実化傾向によって、ある程度はサポートされている。これは、各個人の持つ時間感覚と経済価値が概して同様であることからできることである。しかし、精神的価値観については各自異なるために、充実化を計ることは困難である。では、精神的余裕とは何かと考えた場合に、一番に思い浮かべられるものの中に充実感がある。

 ”今頃、精神論なんて。”と思われるかもしれないが、これからの農業従事者の意識改革を行うためにも、農業従事者の精神的充実を計らなければ、いつまでも農業を一つの産業としてしか認識しない傾向は続くのではなかろうか。

 ここで近年、農業土木の分野において、農業農村整備事業が活発に行われている。この事業は農村景観整備や農業農村施設・基盤の整備を行うことを目的としたものである。私的な考えの基では、この農業農村整備事業も農業土木関係分野の技術者が農業従事者の精神的充実を計るために行っているサポートの一端ではないかと思われる。

 農業農村基盤整備は前述したように、農作業環境の充実を計るだけでなく、農村を活性化させる目的をも含んでいる。これは近年の農村における過疎化を農業土木の分野が抑制、防止するための一つの手助けであるとも捉えられる。

 各地方の農村においては過疎化防止対策に真剣に取り組んではいるが、農村の過疎化は増加の一途をたどる一方である。この過疎化の原因の根底にあるものは、いろいろと批判を受けるかもしれないが、農村に対する魅力が中途半端であるためだと思われる。ここで断っておくが、ここで述べた魅力とは農村外部の人が一時的に持つ非現実的(ここでの非現実的とは、日常的に体験することのできない事柄を含めて各自がこれまでに体験しえなかった事柄を示す。)な魅力を含めて、都市生活における現実的(ここでの現実的とは、日常的に体験できる事柄を含めて各自がこれまでに体験しえた事柄を示す。)な魅力のこともさしている。

 確かに、時々訪れる農村は自然が豊かであり、人情味にも溢れ、都市と比べものにならないほど生活環境面が充実している。しかし、長時間滞在すると、何か物足りないことに気づくのである。この何か物足りないと思われる内容は個人によって異なるかもしれないが、だいたいが都市には大量に存在しているが農村には希少である物資の量とか人工的な娯楽施設とか都市生活者が現実的に感じる魅力のことである。このことは農村住民が都市生活の便利さなどを含めた都市の魅力に惹かれる一方で、農村における魅力を都市にも望み、その望みが叶わないときに感じる物足りなさと同じことである。

 つまり、自分が持たない非現実的な魅力を相手に見つけることで一種の感動をおぼえるが、一方で自分が持つ現実的な魅力を相手に見いだせないことで物足りなさを感じるのである。

 ではなぜ農村住民が都市に流出していくかというと、現代においては都市における生活の方が農村における生活より良し悪しにしろ刺激が多く、あらゆる選択手段の幅が広いために、現代における生活のしやすさを考えた場合に都市の方が有利であるためである。また、道路を含めた移動手段の充実が計られた結果、農村と都市との物理的距離が縮まった結果でもある。

 では、農村を都市と同様に開発し、都市化を進めれば過疎化は防げるかと言うと、それでは人々を農村に引きつける異次元空間の扉が無くなり、農村は都市と同じ存在価値しかなくなるために、人々はさらに寄りつかなくなると思われる。また、都市化を進めることで人々が農村に定住することも考えられるが、それでは農村は都市と同じ意味(ここではむしろ魅力と言いたいが)しか持たなくなり農村独自の環境、文化を今後形成していくのが難しくなると考えられる。

 つまり私の経験から述べさせていただくと、農村とは都市とのギャップがあってこそ存在価値があるのである。


(以下省略)