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2007年4月1日現在
鳥取大学農学部
生物資源環境学科
生物資源科学講座
准 教 授
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小学生時代の思い出
小学生時代の私は決して成績のいい学生ではありませんでしたが、 遊びには夢中で、いつも親に叱られていました。ただし、先生には反応が速いと言われたことはまた覚えがあります。
小学校の勉強はは中華人民共和国甘粛省蘭州市で行いました、最初に入った小学校は七里河区にある面粉工場小学校でした。しかし、両親は仕事の関係で半年後に転勤し、幼い私も一緒にもっと都心部の城関区にある山字石小学校に転校させられました。結局面粉場小学校には半年間しか行きませんでした。
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中学校と高校の話
2年間の中学生活が終わり、順調に高校に進学しました。高校2年(1978年)の春から中国は教育制度の改正が始まり、小、中、高校は6、3、3制を取り組み、大学入学試験は回復しました。春入学も夏入学に改正しました。そのため、1978年に大学入学試験が春と夏に2度ありました。私は親に言われ、入試勉強を必死にしました。成績は徐々によくなり、ついクラスの4番目になりました。1979年7月の大学全国統一入試試験に合格し、同年10月に甘粛農業大学に進学できました。教育制度改正のため、実際には私の高校時代は2年半となりました。
中国の文化大革命の終わり頃に蘭州市第3中学校に入り、同時に家も都心から広武門に引っ越しました。中学2年の時、文化大革命の終了宣言をされ、学校も徐々に政治中心論から学業重視に変わり始めました。私の成績が徐々に上昇し始め、中学校卒業する頃、グラスの中上流になりました。
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大学時代
ダムまで徒歩往復は最短で12時間でした。第3回目にそのダムに行くとき、クラスメート3人と私、4人で行ってきましたが、持っていた食べ物が足りなく、行く途中で全部食べてしまい、帰りに腹べっこで辛かったです。道路そばの畑に入り、生のトウモロコシを取って食べました。さらに帰りは暗くなり、農村地帯の夜には街灯がなく、真っ暗でした。道に迷い、学校に戻ったのは夜中の1時前後でした。寮にはすでに消灯しました。結局往復は19時間もかかりました。
このような遊びの中で、大学1、2年はあっと言う間に終わり、学科科目の成績はどんどん落ちてしまい、合格万歳の生活を送っていました。正直に言えば、そのときにはまだ勉強はどんなものかは分からなく、成績はどうでもいいという考えもありました。大学時代にはサークル活動に参加したことはありません。
大学3年に入りますと、学校近辺の遊び場もほとんど回ったし、年齢の増長につれ、勉強には徐々に力を入れるようになりました。努力すれば誰でもできることで、テストで満点の科目もいくつかを取りました。その後順調に卒業し、公務員になりました。
1979年10月4日、16歳、また未成年の私が中国の甘粛農業大学に入り、家から250キロメートル離れた大学の寮生活が始まりました。大学の生活はご承知のように、クラス担任の先生がいなく、講義以外の時間はほとんど自由時間であります。寮には多少の規則があるものの、自宅の親の監督の下の生活よりまさに天国であります。勉強にはまだ自覚のない私が毎日遊び放題。日本人によく知られている万里の長城はその大学からただ10キロしか離れていないので、旅行好きな私は行くのは当然。万里の長城には何回も行きました。もちろん徒歩でした。さらに学校から50キロ以上も離れたところにダムがあり、そのダムにも3回徒歩で行きました。
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就職後
新人の私はとても勤勉で仕事に対する情熱はいっぱいで、毎日朝から他人より早めに出勤し、与えられた仕事は真剣にしていました。そして評判がよく、リーダーの信頼も得られました。つい1985年4月に勤務所人材培養のため、私が日本語訓練班で勉強することを決められました。4月の末から10月初め頃まで、ほぼ5ヶ月間の日本語能力訓練、とてもハードでした。後期の2ヶ月間には、毎日平均4時間しか寝ていなかった日々が続いていました。大学の受験勉強よりずっと苦労をしました。そのお陰で500ページ前後の教科書は6冊、単語・文法・本文をまるごと暗記できました。10月末に中国蘇州市にある蘇州農業技術学校で行われた出国人員日本語全国統一試験に見事に合格しました。
1986年3月中旬、農業技術研修生の団長として、10人の研修生を連れ、日本国秋田県立営農大学校に派遣されました。研修期間は1年間でした。その年、私は23歳でした。
1987年3月中旬、研修終了無事帰国。民主主義思想をいっぱい受け入れた私は、中国の官僚体制を改造しようと、若い情熱で社会にぶつかり、結局何もできず、社会に対する個人はどんなに無力であるかを実感しました。つい1992年12月15日に再び留学の話があり、仕事を辞めました。
1983年7月27日、初めでの仕事の日、新人の1人として、ドキドキ、ワクワク。3日後、給料前払い制度により(月の15日を切り目として、前半に就職した人は全額、後半に就職した人は半月分の給料を支給される)、半月分の給料を会計の方からもらい、これまでお金に困っていた私にとっては、その金額が大きく、とても嬉しかったです。その最初の給料、私にとってとても金額の大きいもの、私に興奮をもたらしてくれた、とても自分のものにしたいお金を私を育ててくれた親に感謝の気持ちをいっぱい入れて、差し上げました。その替わりになん元(元は中国の貨幣単位)かの小遣いを親からいただきました。
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2度目の留学生活
1994年4月1日に鳥取大学大学院の修士課程に入りました。笠原浩三教授の指導の下で、青果物市場データの時系列分析を研究テーマとし、新しい可変型季節性指数の抽出方法を開発しました。それを連環比率移動法(Link Relative Moving Method)と名付きました。この方法に関する詳しいことは修士論文概要を読んで下さい。
1996年4月1日、鳥取大学大学院連合農学研究科の博士課程に入学し、引き続き時系列に関する研究をし、可変型循環変動の抽出方法について検討してきました。博士課程勉学期間中には学会で5回口頭発表しており、投稿論文が8遍があります。詳しいことは最近の研究論文を読んでください。
1999年3月31日、3年間の博士課程を終え、順調に卒業すると同時に博士(農学)学位を取得しました。博士課程期間での研究成果については博士卒業論文概要を参照してください。
1992年12月26日、鳥取県米子市角盤町に在住の友人前田智博さんが私の在日身分・経済保証人にしていただき、2度と日本国に来ました。その年、私は29歳でした。1993年4月1日、研究生として、鳥取大学農学部に入学しました。同年9月に同大学大学院修士課程進学テストに合格しました。
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博士学位取得後
1999年4月1日から,鳥取大学農学部の外国人研究員(無収入)として研究を続け,同時に就職を探していました。
2000年4月1日に鳥取大学農学部の助手として就職いたしました。
2003年4月1日,鳥取大学の助教授に昇任され,農学部に所属し,現在に至ります。
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